下元です。
ここ最近、マルクス・シドニウス・ファルクスという実在したローマ帝国貴族が上梓した「奴隷のしつけ方」という本を読んでいました。
生理学などの本ばかりを読んでいるわけではなく、以前に紹介したエマニュエル・トッド氏の歴史学・人口学・人類学系の本を読むこともあります。
この類の本に手を出してしまう根本的な動機は、「我々はこれからどうなってしまうのだろうという」強烈な疑問です。
単なる不安や未来に向けた投資ではなく、真の読書家たちが続けてきたアナロジカルに歴史や社会を比較分析して、人生の舞台で自分はなんの役割を演じてきたのか、またこれから演じていくのかを熟慮するための知的基礎体力作りのために読んでいます。

「奴隷のしつけ方」に記されたローマ帝国の社会秩序は、根本的には、現代の大陸ヨーロッパとさほど変わりがないなという印象を覚えました。
エマニュエル・トッド氏が教えるように、大陸ヨーロッパの大方は民主主義的であった歴史的ためしはなかったのです。
縦型の権威主義よりの秩序だった体制であり、むしろ民主的だったのは辺境部、帝政ローマ期にあってはブリタニアの地にサクソン人たちが興隆しはじめた頃の彼の地にあってでしょう。
そして、ローマ帝国における奴隷の実際の在り方は、アナロジカルに考えてみると、さして現代の大陸ヨーロッパや日本などと変わらないように観えました。
奴隷たちは実はかなりの自尊心があり、人間的扱いを受けなければ精神を病んでしまう例が多く、それでも絶望せずに金をためてその金で奴隷から開放されるその姿は現代にも見られる歴史の反復現象のように思えました。

著者のマルクス・シドニウス・ファルクスは、これを奴隷所有者達の、帝国の投資だと考えています。
奴隷は開放されるために懸命に働きます。
そこでの稼ぎから大枚を支払うことで奴隷から開放され、自由市民への門戸を叩くのです。
マルクスは、奴隷は元々自分たちの所有物であり、彼らに支払う金も元々われわれのものだが、いずれ彼らが支払うことでその金も回収できる。
故に、これは投資であると説明します。

話がそれるようですが、ここ最近の漫画、アニメのTOP10にもはいらずに見過ごされている下元氏お気に入りの一作があるのですが、「ヴィンランド・サガ」という作品です。
西暦1000年あたりの北欧はノルド戦士たち、ヴァイキング達の物語が描かれています。
ご存じの方もいるかも知れませんが、まぁ主人公のトルフィンが出だしはただのDQNなので、ずる賢い海賊の親分アシュケラッドがほとんど主人公になっちゃってる最初の章が一番好きです。
「ベルセルク」でいうところ、鷹の団の活躍、ガッツやグリフィスが一介の傭兵団から貴族階級までのし上がっていく、あんな感じの躍動感が味わえます。
だいぶ話がそれましたが、この「ヴィンランド・サガ」にも奴隷は重要なテーマとして登場します。

「おい見てみろよ。おかしなもんじゃないか。金の奴隷が金で買った奴隷にムチを打ってやがる。人はみな、何かの奴隷なのさ。」
これはアシュケラッドのセリフです。
実は、アシュケラッドはただの海賊、ノルドのヴァイキングではなく、ローマの血を受け継ぐ鬼才であり、心中ではある強烈な理想を追い求めています。
アヴァロンから本物の王がご帰還になられるのを待つ精神的忠臣であり、目的のためには手段を選ばない冷血漢の面を持っていながらも、野蛮な奴隷性を憎んでいます。
主人公のトルフィンは、父親の仇としてアシュケラッドを討つべく彼についてまわるのですが、やがては知的、精神的師匠、父親のような兄貴のような存在として影響を受けていき、それはアシュケラッドがいなくなってから嫌でも気付かされるようになります。

「わたしが本当に欲しいものは、愛です。愛は、どんな金銀財宝や情婦よりも価値を持ちます。」
「親が子を愛する。これは愛ではありません。差別です。」
これは北欧神話が未だ主流な宗教的精神的支柱であったこの時代にあって、当作品中に登場するキリスト教神父が発したセリフです。
たしかに、私のようなものにとっては二刀流で暴れ回っている時代のトルフィン達の活躍のほうが面白く感じられるのは事実。
しかしながらアニメ2期でその過ちの日々を後悔し、あらたな人格を獲得していく主人公トルフィンの葛藤の様子には思うところがたくさんあります。
アナロジカルに見て、我々現代人もまた真の価値を知らないがゆえに、あわれな戦い続けることしか知らないかつての野蛮なノルド戦士のように地獄へと落ちて言っているのではないか、そう思わされるのです。

「奴隷のしつけ方」で、マルクス・シドニウス・ファルクスは、奴隷に与えてはならないものにつぎのことを述べています。
本、読書の機会を与えるなんて贅沢であると。
まれに、そうではない、たとえば学者としての才を見出され大いに社会に貢献を果たした解放奴隷のれいなどがありますが、これらは例外中の例外でした。
現代風に言えば、やりがい搾取をするべきであると堂々と言い放っています。
なぜなのか、それは奴隷の本性がかかわっていると、滔々とつらつらと長文がありますが、要約すると現代の学に身の入らない学生から生産性の低い労働者まで、本性が自由人とはかけ離れているからだそうです。
マルクスの言う自由人とは、本を読む人たち、自由のための教養を学ぶ人達、ヴィンランド・サガに出てくる神父の言葉で言えば究極の価値を知ろうとする者たちのことです。

「アシュケラッド、お前こそ王になる気はないのか?」
「俺はただのヴァイキングですよ。」
クヌート王とアシュケラッドの会話より。
「俺はもう、待てなくなったのさ。アヴァロンから本物の王がご帰還なされるのを。」
「無礼者!ブリタニア王の御前であるぞ。我が名は、ルキウス・アルトリウス・カストゥス!!」
アシュケラッドは、トルフィン達に未来を託していきました。
奴隷商も、戦争もない世界を。
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